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あの減躁

わたしがよく言う冗談で、アカヒ新聞の悪口を言っている人に、「あなたは戦時中のあの新聞の勇ましさを知らないからそんなことを言っていられるのだ、馬鹿にしてはいけない、一旦事が起きたときのあの新聞の勇猛果敢さはいまの三系新聞なんて目じゃないんだから」というのがある。
いまでも、あの新聞を読んでいると、ああこれが逆に振れたら「一旦事が起きたときのあの新聞」になるのか、といった軽薄な論調の記事がときどき書かれている。

幇間と噺家は違う。目の前の旦那への受け狙いで調子こいてる幇間の芸と、目の前の観客のむこうに存在している目利きを意識しながら、綿々と続いている伝統から精進して得た技術で自分の表現として表出する芸(ときには自分自身をも破壊する)との違い。

売れれば即それが評価であるなら、世の中は幇間だけでいい。
幇間新聞が世界を動かしているように思えるときがある。


名前が同じだからという理由で、米国大統領をフラダンスで歓待しようとする日本の市民をノーテンキとかいって軽蔑している連中は事の本質を見誤っている。
かの市民の認識は幇間の精神とは程遠い。その認識は永遠の諸本質に関わっている。それから得られる喜びは能動的な喜びである。そこには愛がある。あの大統領はその愛を敏感に感じ取り、受けると表明した。その無垢な素直さに我々は感動する。

彼は、ヒロシマやナガサキの平和記念資料館や追悼平和祈念館に来館する初の米国大統領になるのかもしれない。

引用;スピノザと表現の問題,ジル・ドゥルーズ,法政大学出版局,1991.10.15.

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