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あの聖人

わたしを見捨てた第一の<心>の言い分はこうだった。

お前にはジュジュがあるじゃないか。それに対立するものに対して、自分と違う意見にも真摯に耳を傾けて、自分が違っているとわかれば自己反省してそれを取り入れるようなところもなくちゃいかんよ。それが社会性というもんだ。

あの攻撃のなかで、知恵をしぼってやっと逃げられたわたしに向かって言うことばとは思えない。いつもそうだった。肝心なときにどこかに行っていていない。彼が思っている社会と違った勢力に囲まれたとき、自分が不利な情況になったときには消えてしまう。応用が利かないのだ。そして、騒動がおちついたときになってから、何もなかったような顔をしてちょこんといつもの場所に座って理路整然とした批評を言っている。いつも自分がすべてを支配できる位置にいたいのだろう。たまたま自分が優位にたてたときの、相手に対する残酷さは徹底している。この第一の<心>を、わたしの<記憶力>はいつもバカにしていた。<心>は<心>でしかない。底なしの森に住む声だけの生き物や、手でさわろうとするとすぐにふっと消えてしまう二次元の実体のない精霊たちと同じ仲間なのだろう。

そもそも「ぼくはここにいるよ」なんてわざわざ言わなけりゃいけないのは、それだけ存在感がない証拠なのだ。インドに行ったことのある友人の話では、「あちらの人はすべてにおいて存在感がある」ということだった。

やっかいなことは、この第一の<心>が役にたつことだ。
自分のコンプレックスを解きほぐそうと何かに向かうときに、この第一の<心>によってわたしは導かれていく。道先案内人としては優秀だった。きれいさっぱり、あるがままの自分をわたしが受け入れることができるのだったら、こんな第一の<心>などお払い箱にしてしまえばいいのだが、わたしはまだまだ、この第一の<心>の呼び声を無視することができないでいる。




引用;『やし酒飲み』,エイモス・チュツオーラ,土屋哲訳,晶文社,1970.11.25.


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