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あの哀愁

ぼくは「殺すな」とは言ったが、「殺される側の論理」なんてことは一度も言ったことはない。「殺される側」なんてことを平気で言える神経がわからない。この国で生活していることがすなわち、自分が「殺す側」に属していることなのに。ほんとにみにくい人たちだ。人のことは言えないから、黙っていたのだけどもういいだろう。あんな人たちと一緒にしてほしくない。We shall overcomeの歌だって、自分があってはじめて歌える歌なのに、ひどいもんだと思う。どこまで無責任なんだろう。正義の側につきたい偽善者たち。あれじゃだめだ。

あなたたちは「殺す側」の人間なのだ。もうすでに手は汚れている。その上での「殺すな」は敵にだけ向けられたものではないはずなのに。

きみが学生のとき、部屋の壁に Omnes animae sunt coitum と書いた額を掛けていたのを思い出した。そうだよな。人は木の股から生まれてくるわけじゃない。哀しみがいつもあるんだ。

自分が思ったとおりの人生を送れるとでもおもっているんだろうか、あの連中は。

言い過ぎた?そんなことはないだろうな。ここまで言っても、ちっとも聞く耳持っていないよ。
ずっとそのままだろうね。

イーリアスの冒頭の一行を書いておく。ぼくの遺書と思ってくれ。
《Μῆνιν ἄειδε, θεά, Πηληιάδεω Ἀχιλῆος.》
《怒りを歌ってくれ、女神よ…》


引用;明後日の手記,小田実,河出書房新社,1970.6.30.

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