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あの山家

ナチにならひて多路にリレーし侍りけるに、この上に一二の路おはします。それへまゐるなりと申す常住の僧の侍りけるに、具してまゐりけり。花や咲きぬらんとたづねまほしかりける折節にて、たよりある心地して1列に並び分けまゐりたり。Chomo Langmaのもとへまゐりつきたる。拝みければ、警告なくて発砲起こり、最後尾につきたる年若き僧、犬のやうに撃たる。まことに少しうち傾きたるやうに坂流れ落ちて拘束さるるを、ほかに多数の青き兵あらはれ、残る少数の者、最後まで追ひつめ、鋭き旗棒の先にて荒き力を加へるは、桃花院の達頼集團への將來的進攻といふ年旧りたりける西藏工作的方針侍りけるを見て、「民族浄化(すみか)とすれば」と詠ませ給ひけんこと思い出でられて

日のもとに 浄みけるあとを 見つるかな 那智の高嶺の 幻火を尋ねて


また、かの國の長、山口のたたかひにて、をばすての剣峯(健保)と申す所の見渡されて、完敗と他人事に思ひなしにや、古月主席回賜(戦略的互恵関係-新冊封体制)に見えければ

をばすては シナ濃ならねど 何処にも 世界はひとつの 赤旗ありけれ

あの啓蒙

この近代の倦怠を平和の代償と言いはやされるのは禄でもないことだった。たとえ死人の数が結果として同じ程度になるからといって、倦怠やら代償とやらを説明するのに、ヨオロッパの中世紀まで遡る方が適切な例が得られるかと思われて中世紀の人間が時々呈した一種の精神的な症状に accidie と呼ばれるものがあった。これは何か宗教上のことに力を傾倒した挙句に挫折が来て力を尽くした対象、又は延(ひい)ては一切のことに関心を失って生じる無気力の状態であってその害を防ぐ為にこれが宗教の大罪に指定されたこともあり、この時代の宗教的な情熱は近代が精神的活動の面でヨオロッパの文明の仕上げがヨオロッパの歴史では最初になされた時代なので一つのことに精神が集中的に向かった点では変ることがなかった。
近代の倦怠や代償は一種の accidie であるとみることが許される。連鎖がおこるからといってナルシシズム的全能感の英雄的行為として実行しようとする予備の青少年から遠ざけようと当該の記事を削除したり関連する言葉を発しないように規制する、事件を報じないといったことが推奨され学校で命の大切さを教えなければならないという人間があらわれたりするがおのれの身を安心の場に置こうとそう発言するもののことばは対象の青少年の孤独をいや増しにしてしまいその心身を極限まで追い詰めてしまう。
そのような近代の倦怠や代償である生にしがみついている人間のあさましさ見苦しさを冷静に見ることで青少年は死ぬということが何か番外のように考えていた自分を笑い飛ばしそれは狐が落ちたのに似ていて或いはそれと全く同じことなのかも知れないが実際にはその時から物が見えてくるのでそれで文明は呪術的に行われていた他者への有機的適合という連鎖行為を廃止しその代わり合理的実践つまり現在の生活へと予備の人間を他人(fremd)のものに--疎外Entfremdung--させるとヘーゲルは言った。

引用;『時間』,吉田健一,講談社,1989.10.10

あの割裂



上からのカメラで見ると会場のほとんどが白髪頭と禿頭ばかりだ。こんな爺いばかりに日本が支配されていると思うと、じつに胸が悪くなる。とくにあの都知事の往生際の悪さといったら!!徹夜明けの顔をTVのニュースで流していたが、なんだろねあれは、やれやれ、ほんとに形骸になっちゃったね。歳はとりたくないもんだ。

ちょっとまじめに考えてほしい。片方には馬鹿で話にならなくて、生きる価値がなくて、しかも悪意を持っている、病気で不快な年寄りがいる。単に使い物にならないだけでなくて実際に人に迷惑をかけているようなジジイだ。自分が生きている意味なんて少しも考えないで、どうせ一両日中に死んじゃうようなジジイだよ。で、もう片方には若い奴らが補助がないために放り出されている。小金持ちのじいさんの金は死ねば国へ収められてしまうんだろう。その金はどのように使われるかは知っているだろう。予算があまらないように裏金つくってる寄生虫たち!!




いやあ、誰でもよかったんだ。
・・・・
ぼくにとってはホームレスのばあさんだって、高校生の女だって同じに見える。
ほんとに誰でもよかったんだ。
・・・・
あの人のことなんてなにも知らないんだよ。
たまたま、あそこにいただけなんだと思う。
・・・・
無口・・・じゃいけませんか?
その間、無になってしまうその空間が耐えられないということはないですよ。
・・・・
自分が確立していないから、自分の敵もあやふやなものになっちゃう?
そうかもしれないし、そうでないのかもしれない。
・・・・
これは自尊心なんだろうか?
あなたが言うように、泳ぐ前から単に水を恐れているだけなのか・・・
・・・・
苦しみに直面するというだけで半分罪を償っていることになる?
罪って・・・ぼくはいま、罠にかかったような気分です・・・



引用;Ф.М. Достоевский,ПРЕСТУПЛЕНИЕ И НАКАЗАНИЕ,1866
http://www.magister.msk.ru/library/dostoevs/dostf02.htm

あの満足

屋敷は、まるできのう出て行ったときのままのように、以前の姿でそこにあった。
庭はジャングルの方式で、さまざまな植物が密生していた。何本ものツツジにはツタがからみつき、その根元ではいろんな潅木が、自分と違った系統のものと関係をもった結果のそのひからびた幹を、くねくねと卑俗な格好で自分の姿をみせつけるように投げ出している。

息を潜めてテラスから部屋に入る。長い廊下をたどりモーニングルームに行き着く。ドアはわたしたちが半開きにしておいたそのままだった。
窓辺から見える真っ赤なツツジの群生は、まわりの生い茂った木々の黒い影の中に埋もれている。
風が通り、カーテンがゆれる。そこは、いまでも美しく調和した女の部屋だった。
完璧に整えられた家具、あの人によってひとつひとつ慎重に選ばれた椅子や花瓶や調度品。それぞれがこの部屋の中で自分の居場所を得た安心感を持って生き生きと呼吸していた。
ブラックバードがバラのしげみから芝生のところまで、ちょこちょこと飛び跳ねては地面をつついている。ツグミは自分の仕事にかまけ、セキレイが2羽追っかけあいをしている。スズメがあちらこちらで動いている。

枯れているように見えた木に若葉が生い茂り、花が咲き、小鳥たちが自分たちの巣をつくる。足りないものはない。この平和と美しさと静けさは誰にも壊すことができないのだろう。


あの人は、ここを出て水底に沈み、自分が生んだ双子の弟へとメッセージを伝えた。
意味は届かず、メッセージだけが届く。コンタクトが成立する。コンタクトされたものは、順々にその行為を実行し繰り返す。
イオウの口臭をふくんだメッセージは、次々と伝言ゲームのように正確に伝わり、「危険!毒ガス発生中」の張り紙とともに反復されていく。
鎖のかたちをした意味のない虐殺が、毎日のように連なって伸びていく。


バルコニーからの視線が、欠陥を持たずそれだけで充足しているわたしたちの体にまといつく。


引用;Rebecca,Daphne du Maurier(1938)

あの夜鳥

地下の左手の裏。
シスター・ベニータの声がする。出ておいで、ムディート。
あなたは知ってるはずだ。

ペータ・ポンセのような老婆たちには、時間を重ね合わせたり混乱させたりする力がそなわっている。
彼女たちはものごとの連続的な流れを断ち、その一片一片を平行に並べたり、折り曲げたり、輪にしたりして、自分たちのもくろみに役立ちそうな仕組みを作り上げる。

わたしが問うのではなく、わたしが世界から問われているのだ。
他人によって見られるもの名づけられるもの、それがわたしの自己についての意識と違っているのは当然だ。そのように見えるのなら、そのように演技してあげよう。わたしの苦しみがあなたにわかるはずがないことによって、わたしはわたしになることができる。

老婆たちは暑がって腕まくりをしている。たるんだ二の腕が震える。修道院の闇の中で彼らはひとりの人間を別の人間に変える。何人もの体をごちゃ混ぜにかき回し、部分部分を選別し、ガラス瓶に入れ白い冷凍室に保存する。幾たびも組み合わせが試行され、次々と標準からはずれた製品が作り出されていく。

老いた賢者の愛情の深さが愛する対象を特別のものにする。
世界がそれを維持できなくなったとき、コントロールされていた陰謀が暴かれる。

引用;『夜のみだらな鳥』,ホセ・ドノソ鼓直訳,集英社,1984

あの皇帝

Trahit sua quemque voluptas. 自分の性向にひきづられて、人はそれぞれの目標や野心を持つ。ひめやかな楽しみや、はっきりした理想を持つ。わたしの理想は、美という言葉で示すことができる。感覚と目から証明されるものであるはずだが定義できずにいる美という言葉。わたしはわたしの世界に責任を感じていた。

トラヤヌスの公正な態度を尊重しているわたしは、すべての市民が法律によって保護されるべきであって、キリスト教徒に対するいわれのない攻撃は罰せられることを地方総督たちに言い渡している。しかし、この狂信者たちのサークル内の親和的な雰囲気や無邪気さにかかわらず、その妥協をしらない凶暴さと傲慢さは、異教徒への非寛容な行動をとるようだ。

百匹の羊を有てる人あらんに、若しその一匹まよはば、九十九匹を山に遺しおき、往きて迷へるものを尋ねぬか。もし之を見出さば、まことに汝らに告ぐ、迷はぬ九十九匹に勝りて此の一匹を喜ばん。

わたしに言わせれば、すべての者を愛しているという者は、無知でなければ偽善者だ。
共同体のルールを守っている人たちを保護するのがわたしの役目だ。
ルールからはみ出した一匹のために九十九匹を犠牲にするわけにはいかない。

しかし、アリアヌスはあのオルフェウスにも似た若き賢者と同じ考えをもっていた。
わたしは彼と一晩中語り明かした。
彼は任意の一匹を助けることが、すべての羊を助けることになるのだと言った。
共同体の基準で測れない、もっと感覚的なもの、性格の「やさしさ」とか「素直さ」のような人間関係の中から出てくるものがその道を照らすのだ、と言っていた。

アリアヌスはなにもわかっていない。彼はクセノフォンではない。


引用;『ハドリアヌス帝の回想』,マルグリット・ユルスナール,多田智満子訳,白水社,2001.5.10.

あの調書

ある適当な人生のシステムの中で、人は単にそこに存在しているというだけのことで、それに適応して、育ってしまうのだけど、その中にある否定的な原理を最初から無視してしまう。いってみれば、それだから彼は、人間的な単位を完璧に完成することができる。パルメニデスだね。こうだ。

《あるものは永遠にあり、ないものは永遠にない。あるということが、あとで滅びるなんてどうしてできるんだ?未来においてあろうとする、なんてことがどうしてできるんだ?もしあったのなら、それは今あるんじゃないし、いつか未来においてあろうとするのなら、それは今あるわけじゃない。このようにして生成は消し去られ、消滅は聞かれることもなくなった》

シェール、これがおしゃべりさ。誰でもうすうす気づいているようなことなんだ。
そうでないのなら、ミシェール、そういうおしゃべりなんて価値がない。なんの意味もないんだ。

突然、彼は自分が彼女の感情を傷つけていることに気がついた。

翌日の新聞の記事ではこうだった。
日曜日の午後、「海岸遊歩道」で奇妙な行動をしながらわめいている青年を人々がとりかこんでいた。彼は逃げ出し、小学校の壁をよじ登って空いていた教室にかくれていたところを警官によって保護された。彼は凶器として料理用の包丁をひとつ携帯していた。

彼への尋問が行われていた。

昔、ぼくが少年のころの友達のシムはこういうことを言っていた。
神により近づくたったひとつの方法というのは、神が物質的な意味でやったことを心の中でもう一度行うことだ、と。天地創造を再び行うという願望が彼や僕にはあるんだと思う。
いや、違う。知識によって神とリンクしようとする考え方の一種だって?ほんとうは、神なんて関係ないんだ。創造主なんかでもない。神ということばをつかったけれど、そういうことじゃないんだ。自分の存在についての疑問?なにか、極端で、我慢できない《無》、それを満たしてくれるものが必要だった...ふたつの場面の間の《無》、ふたつの時間の間の《無》、自分と他者をつなぐために発せられる意味のないおしゃべり...



引用; Le Proces-verbal, J.M.G.Le Clezio,Gallimard,1963,

あの愛人

わたしはわたしの内部からの声で母に答えるだろう。
母は流れゆくエクリチュールとなって、健康な狂気の破片をしなやかな体のあちこちに嵌め込み、うす緑色の沈黙で世界のページを埋めている。
ほとんど脈絡のない<イメージ>が、流れの早い河の泡のように浮かび上がり、熱い水分を含んだ黒い泥の大地に流れつき焼き付けられる。

上の兄は自由に悪のできないことに苦しんでいた。
彼の出発点は理想主義だった。そして、いま絶対的な孤独のうちにある。
下の兄は、この兄の動向に苦しみ夭折する。
わたしが眠っている間に風通しの良い通路を濃い血の香りが吹き抜ける。
虐殺は何度も繰り返されている。初めてのように驚くものは誰もいない。

砂塵が舞う道、袋小路の終点で互いに同質の生き物たちが、愛憎で粘ついた何本もの細い糸で何回もぐるぐると取り囲んでつくる巣の中へ、わたしは長い触手を伸ばす。恋人たちの共同体を横切って鉄道線路を酸素濃度の低い土地まで延ばす。侵入し、さまようやせた個体ひとつひとつに自分のうす紅色の浸出液をかける。愛は合一として成就するものではなく、捉えようのないたえず遁れゆくものとの関係である。一体化しようとしてもそれは逃げていく。生来の自己愛からくる全能性への盲目的服従から、同質の生き物たちは外敵を排除しようとする。わたしはそのグループ内から発せられることばに耳をかさない。それは「病い」であるとして、未知の謎めいた病、「死に至る病い」であることを名指しするかもしれない。生きていないものは死んでいる。


引用;『明かしえぬ共同体』,モーリス・ブランショ,西谷修訳,朝日出版社,1984.10.25.

あの風浦

どうも。走りながらしゃべるのは慣れていないからちょっと聞きとりにくかったらごめんね。
僕はわりとふつうの人間です。
RadioheadのKid AをiPodで聞きながら、ときどきいまみたいにジョギングして、晴れた日はとなりのシートに猫をのせて(虐待だなんていわないでね)、マツダ・ロードスターで町を走るとネズミと子供たちが僕のあとをついてくるみたいな感じのふつうの人です。

たしかに自分の知恵でスフィンクスを黙らせたこともあったよ。昔の話なんだけどね。

さすがというか、むこうも僕と同じタレントの持ち主だから、互角の戦いになってる。勢いはもちろん僕のほうが数段上だけど、ライトセーバーの使い方とかまだ自己流の域をでていないから、このあいだも、ヨーダに「基本ができていない、もっと勉強しろ」とか言われちゃった。

あのヨーダについては、僕もはじめはうさんくさい奴だなぁと思ってたんだけど、案外言ってることはまともなんだよ。ちょっと聞くとトンデモなんだけど、むこうも同じようなことちょいちょいもらすだろ?あれと似ていてことばの表面だけ聞いていてはダメなんだ。ちゃんと理にかなったこと言ってるよ。トランスパーソナル心理学ってあっただろ、いやあ僕もそんなに詳しくないんだけど、あの系統だと思うよ。シュタイナーだって?ちょっと違うけど似たようなもんだと思うよ。なにしろ二人ともクローン戦争の生き残りだから。

ワンとかソロとか言う無責任な単独者が伴走してるけど、それはまたべつの話。彼は彼で魚でも降ってくるような話を書いてればいいと思う。

あの愛巣

サフラン染めの衣をひらめかせて地に崩れ落ちた。
家への呪い言葉なんどが出ぬように、
声を轡(くつばみ)の力でさえぎり、
嵐を止める犠牲(いけにえ)として
父のくりだす青い刃に胸をつかれた。

あの殺されると泣き叫んでいる赤ん坊たち
ああ、かなしい祖国の、
聖母峰の山々よ
どうして苦しんで頭をひねって
ウソを本当にしようとするのだろう

この館には、人殺しと滴る血の気がこもっている。

この人は館の中で酒注ぎに数限りない禍いののろいを満たし、自分で飲み干した。

この家系(いえすじ)には、禍(まがつみ)が膠のようにしっかりと取り付いている


襁褓(むつき)の中の蛇、わたしも同じ胎(はら)から生まれてきた。2人がしゃぶった愛(かな)しい乳には、血の塊が混じっていた。奥方は、肝を冷やして、その痛さに高い呻(うめ)き声をあげた。夢の中で。

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