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あの羅々

ダイエット禁煙キャンペーンは、しかけられる側にとっては百害あって一利なしだと思う。
しかける側は一利だけなのだが。
人をコントロールできる喜びとその結果において経済的な富を得られるであろうという期待とは一続きのもので、ほとんど同じものを違う角度からみているように私には見える。だからこの場合、結果としての富を必要としない人はなかなかいない。

百害あって一利なし、のほうには異論があるだろう。それらに成功して、結果として健康を得られるのなら利ではないか。生きとしいけるものにとって、これ以上の利はないではないか。

しかし、私が見た限りにおいて、「しかけられて」成功し、心身の健康を得た人などひとりもいない。成功して健康でいられるのは、「しかけられて」成功したのではなく、それとは関係がない次元で自分を根本から改造した人だけのように見える。「ガンが消えた」--「もともとガンなんてなかったんですよ」のパターンとよく似ている。結果は必然なのだ。


たとえば、このごろ連続して起きた「ひきづり逃げ」事件とか、「だれでもよかった」殺人事件について、私には言うことばがない。言うとしても、嫌な世の中だとしか言えない。つまり彼らの無意識には共通して、アキバのあの事件と同じ構造の断片が存在しているのだろうということだ。その時彼らには無意識の中から出てきたなにかが憑依している。その時彼らにどんなことばをかけても無力なのだろうという諦観が私にはある。彼らは過剰な食物やタバコのように自分の心身が依存しているものから無残にも裏切られ、慣性のまま進み、その延長に破滅があった。

逆の立場の人たち、「しかける」人たちについてはこういうことになるのだろう。
彼らは、「しかけられる」人たちに「あなたは何のために生きているんですか?」と問う。反語だ。「自分がわかってないんじゃないですか?」「生きていてもしかたないんじゃないですか?」

嫌悪感しか催さないそのような問いは、彼らの価値観を考えれば、生まれて当然に見える。彼らは自分たちが「何のために生きているのか」はっきり自覚している。無意識から出てくるものをうまく抑圧できずに失敗している人たちを見て、あきれてしまう。頭悪いんじゃないの?彼らは自分たちが見ていることが信じられない。あのような人たちは自分たちの理解できない世界に生きている人たちなのだ。せっかく法律を作ったのになんてことだ。この分だと、もっと網目を細かくして、具体的な条項を増やさねばならないようだ、とか思っている。

私は、「しかける」人、「自分がわかっている」人については寛容になれる。
「しかけられて」失敗した人の人生オワタ\(^o^)/とは違う意味で、彼らも人生オワタ\(^o^)/のように見えるからだ。お体お大事にとでも言っておこう。無数に湧き出てくる砂によって描かれた物語の中では、彼らの存在はほとんど記憶に残らない。

>行列は進み、〈永遠の記憶〉が歌われている…

引用;Борис Пастернак,Доктор Живаго(1957) 
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