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あの迢空

いま問題になっている「みぬま」や「みつは」であるが、これらは一語である。
「生立(おひたてるか)若水沼間(わかみぬま)の、いやわかえに、み若えまし、すゝぎふるをとみの水のいや復元(をち)に、み変若(をち)まし、…」の「若水沼間」であるが、この前にある、「をち方のふる川岸、こち方のふる川ぎしに」というフレーズにヒントが隠されているように思われる。

我が古代語の「妣(はは)が国」は、海のあなたにあり、そこから来る祖先の霊を迎えることを「母小(あんがまあ)」と言ういきさつは前回に話したとおりであるが、これらの霊は迎えられ饗応を受け、家の主人・主婦等に教訓を残し批難して帰る。「ことほぐ神」と「そしる神」である。一方的な断定なのである。

さて、「をち方のふる川岸、こち方のふる川ぎしに」である。
川の向う岸、こちら岸は主観の位置を示すだけのことばになった。フラット化がすすみ、祖先の霊も神も死に、偶然そうなった実存の位置を示すだけのものになったわけであるが、こちら側にいるものにとって向う側にいるものは、交流がない場合、他者といっていい。他者が一方的な断定をしてそそくさと帰っていく。反論は許されていない。それゆえ、こちら側にいるものの発語は被害者の言葉になるだろう。

「殺される側の論理」である。「殺される側」に対置するのは「殺人者」である。「殺人者」は帰ってしまっていま、ここにはいない。「殺人者」が不在のままの社会で全員が「殺される側」の人間であることを確認する。帰っていったものの言葉をしゃべるものは「殺人者」として遇され排除されるだろう。生まれ育つものは、清らかな流水の禊(みそぎ)によって穢れを落とされなければならない。しかし水は汚れた。祖先の霊や神がいる純粋な世界の水はなくなり、この世界を永遠に循環している自己愛に満ちた水しかいまはない。

いつたいに、自己愛から生じる正義は「汚れた下着」と言われるのであるが、「汚れた下着(生写真付き)」を買う人にとっての正義とは何なのか、また売る者にとってそれは手近かな換金方法であるが、その行為の中に快楽は潜んでいないか。またこの関係は、わたしには授乳時期の母子の関係と相似に見えてしまう。とすれば、汚れた下着を求めるものは口唇期に固着したものといっていいだろう。

ここで以前からの疑問を問うてみたい。
嫌煙活動家の、あの喫煙者に対する憎悪の感情は何処から湧いて出て来るのか。
上の論理(?)をなぞれば、口唇期に固着しているものへの憎悪、つまり(自分の)母親の乳房をとられてしまったものの恨みのように思えてしまう。

動物保護活動家の、死刑廃止論者に対する憎悪の感情も同様である。
「死刑が人殺しであるなんて言ったら怒りますよ」
動物保護活動家の「動物」は自分が感情移入できる動物のことであり、自己愛の対象でしかないのだろう。
帰っていったもの、他者を擁護するものへの攻撃・排除は全体からの抑圧となり、あらゆる隙間を埋めていく。
「若水沼間」は、手入れもされず枯れて行くのだろう。

引用;折口信夫「水の女」(1927)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/24437_14422.html

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